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大江戸温泉物語に学ぶ、「選ばれる理由」をつくるマーケティング
日本の宿泊業界は、今まさに大きな転換期を迎えています。
新型コロナウイルスによる未曾有の打撃から回復基調にある一方で、人口減少に伴う国内旅行需要の変化、人手不足の深刻化、食材やエネルギー価格の高騰、さらにはインバウンド需要への対応など、宿泊施設を取り巻く経営環境は年々複雑さを増しており、単純に宿泊客を増やすだけでは持続的な成長を実現できない時代へと移行しています。
宿泊業は固定費の割合が高い産業です。
建物や温泉設備の維持管理費、人件費、光熱費などは、客室の稼働率が多少変動したとしても一定水準で発生するため、多くの事業者は「いかに客室を埋めるか」という視点で経営を考えがちです。
しかし、価格を下げることで稼働率だけを追求すれば利益率は低下し、結果として設備投資やサービス改善へ回す資金が不足し、長期的には競争力そのものを失ってしまいます。
こうした厳しい環境のなかでも、着実に事業を拡大し続けている企業があります。それが、大江戸温泉物語とTAOYAという二つのブランドを展開するGENSEN HOLDINGSです。
同社は2024年に大江戸温泉物語と湯快リゾートの経営統合を実現し、翌2025年には運営会社を一本化することで、新たな経営体制をスタートさせました。
そして2025年度には宿泊売上654億円、前年比8.6%増という結果を残し、会員制度「いいふろ」の会員数も約200万人に到達しています。さらに2030年には100施設、売上高1,200億円という長期ビジョンを掲げており、宿泊業界でも存在感を高め続けています。
一見すると、「施設数が増えたから売上が伸びた」と考えてしまいがちですが、その本質は決して規模の拡大だけではありません。むしろ注目すべきなのは、「なぜお客様がこの宿を選ぶのか」という理由を一つひとつ設計し、それを仕組みとして磨き続けている点にあります。
本稿では、大江戸温泉物語の取り組みを単なる宿泊業界の成功事例として捉えるのではなく、あらゆる業界の経営者や事業家にも共通する「価値創造」と「マーケティング」の視点から考察していきます。
1. 「泊まる場所」ではなく、「旅の目的」を売っている

宿泊施設は本来、「寝る場所」や「休息する場所」という機能を提供する存在です。
しかし現在の旅行者は、単に一泊するためだけに宿を選ぶのではなく、「この宿だから行きたい」「この料理を食べたい」「この温泉に入りたい」といった、宿そのものが旅行の目的となる体験価値を求めるようになっています。
大江戸温泉物語は、この顧客心理の変化を的確に捉えています。
同社が近年特に力を入れているのが、「食」を中心とした価値づくりです。地域ごとの特色を活かしたバイキングや旬の食材を取り入れた料理は、単なる食事ではなく、その土地ならではの魅力を感じられる体験として設計されており、多くのお客様から高い評価を得ています。
つまり、大江戸温泉物語が提供しているのは客室そのものではありません。家族や友人、大切な人と過ごす時間、地域の食文化との出会い、温泉で心身ともに癒やされるひとときなど、「旅行全体の価値」を商品として提供しているのです。
マーケティングには、「人はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しいのである」という有名な考え方があります。お客様は商品そのものを買っているのではなく、その商品によって実現したい未来を買っています。
宿泊業もまさに同じです。
お客様は部屋を借りたいわけではありません。家族との思い出をつくりたい、日常から離れてリフレッシュしたい、美味しい料理を楽しみたいという感情的価値を求めて宿を選んでいます。
だからこそ、大江戸温泉物語は「宿泊料金」で競争するのではなく、「ここでしか味わえない時間」を提供することで選ばれるブランドを築いています。価格競争ではなく価値競争へと軸足を移している点こそが、同社のマーケティングの本質なのではないでしょうか。
2. ブランドを増やすのではなく、「選ばれる理由」を分けている

企業が成長すると、多くの場合はブランド数を増やすことに意識が向きがちです。
しかしブランドを増やすこと自体に意味があるわけではなく、本当に重要なのは、それぞれのブランドが「誰の、どのようなニーズを満たす存在なのか」を明確にすることです。
大江戸温泉物語とTAOYAは、その考え方を体現しています。
大江戸温泉物語ブランドは、家族旅行や三世代旅行など、幅広い世代が気軽に利用できる温泉宿として展開されており、「手頃な価格で満足度の高い旅行」を提供することを目的としています。
一方でTAOYAは、オールインクルーシブという特徴を活かし、大人がゆったりと過ごせる上質な滞在体験を提供しています。
ここで重要なのは、「高級ブランド」と「普及ブランド」という上下関係ではなく、顧客が求める価値によってブランドを明確に分けていることです。
経営学者マイケル・ポーターは、「戦略とは違いを生み出すことである」と述べています。つまり、競争優位とは何でも提供することではなく、「誰のために何を提供するか」を明確に決めることによって生まれるものなのです。
すべてのお客様を満足させようとすれば、結果として誰にも強く選ばれないブランドになってしまいます。しかし、大江戸温泉物語はファミリー層、TAOYAは大人のリゾート需要というように、それぞれが果たす役割を明確に定義することで、「自分に合っている宿」として選ばれる理由をつくっています。
ブランドとは、ロゴや名称ではありません。お客様がそのブランドに対して抱く期待そのものであり、「このブランドなら自分が求める時間を過ごせる」という信頼を積み重ねることこそが、ブランド戦略の本質なのだと思います。
3. 成長の鍵は「新築」ではなく「再生」にある

ホテルチェーンが成長すると聞けば、多くの人は新しいホテルを次々と建設している姿を思い浮かべるでしょう。しかし現在の日本では建設コストが高騰し、人材確保も容易ではなく、新築だけに依存した成長モデルは以前ほど現実的ではなくなっています。
そのような環境のなかで、大江戸温泉物語が積極的に取り組んでいるのが、既存旅館やホテルの再生事業です。
2025年度には複数の施設をリブランド・リニューアルし、新たなブランドとして再出発させました。さらに今後は30〜50室規模の旅館再生にも本格的に取り組む方針を打ち出しています。
この戦略の本質は、古い施設を安く買うことではありません。
地域には、長年愛されながらも経営難に直面している旅館が数多く存在します。それらは建物が古くなっていたとしても、温泉という資源、立地、歴史、地域とのつながりなど、新築では簡単に生み出せない価値を持っています。
大江戸温泉物語は、それらの資産を活かしながら、現代のお客様が求めるサービスやブランドを組み合わせることで、新しい価値を創造しています。
つまり、ゼロから作るのではなく、既に存在する価値を磨き直すことで競争力を高めているのです。
この考え方は宿泊業だけに限りません。
企業経営においても、本当に重要なのは新しいものを増やし続けることではなく、既に持っている経営資源をどう組み合わせ、どう磨き直すかという視点なのではないでしょうか。
4. インバウンドも「数」ではなく、「質」と「分散」で考える

近年、日本の観光業界ではインバウンド需要の回復が大きな追い風となっており、多くの宿泊施設が海外からの旅行者を積極的に取り込もうとしています。しかし、大江戸温泉物語が注目しているのは、単純に海外からの宿泊者数を増やすことではなく、「どのような市場と、どのような関係を築くか」という長期的な視点です。
実際、同社は台湾での広告展開を開始する一方で、「特定の国や市場に依存しない」という考え方を明確に打ち出しています。これは一見すると慎重な姿勢にも見えますが、経営という観点から考えれば極めて合理的な判断と言えるでしょう。
なぜなら、一つの市場への依存度が高くなれば、その国の景気や為替、政治情勢、感染症などの影響を直接受けることになり、事業全体の安定性が大きく損なわれる可能性があるからです。
一方で、複数の市場へ適切に分散しておけば、どこか一つの市場が落ち込んだとしても、他の市場がそれを補完することができるため、結果として長期的に安定した経営を実現しやすくなります。
さらに同社は、地方施設においても短期的な宿泊者数の増加だけを追い求めるのではなく、「何度も訪れたいと思っていただける宿」をつくることを重視しています。つまり、一度来てもらうことよりも、「また来たい」「次は家族を連れて来たい」と思っていただける関係性を築くことを優先しているのです。
マーケティングという言葉を聞くと、多くの人は広告やキャンペーンによる新規集客を思い浮かべます。しかし、本当に強いブランドとは、広告費をかけ続けなければお客様が来ない企業ではなく、一度利用したお客様が自然と再来店し、口コミによって新たなお客様を連れてきてくれる企業ではないでしょうか。
大江戸温泉物語が目指しているのは、まさにそのような「長く愛されるブランド」であり、短期的な集客よりも、中長期でブランド価値を積み重ねるマーケティングを実践している点に、大きな強みがあるように感じます。
5. 統合の本当の目的は、「規模」ではなく「仕組み」をつくること

2024年に大江戸温泉物語と湯快リゾートが経営統合した際、多くの人は「施設数を増やすためのM&A」という印象を持ったかもしれません。しかし、その本質は単なる規模の拡大ではなく、グループ全体で価値を生み出す「仕組み」を構築することにあります。
企業が統合すると聞くと、施設数や売上規模ばかりに目が向きがちですが、本当に重要なのは統合後にどのようなシナジーを生み出せるかという点です。
例えば、食材の共同調達によって仕入れコストを抑えることができます。予約システムを統一すれば、お客様の利便性が向上すると同時に運営コストも削減できます。さらに、人材育成の仕組みやブランド戦略、マーケティングノウハウをグループ全体で共有することで、一施設では実現できない競争力を生み出すことが可能になります。
つまり、統合とは単純に会社を大きくすることではありません。それぞれの企業が持っている強みを組み合わせ、新しい価値を生み出すための経営戦略なのです。
経営学者ピーター・ドラッカーは、「成果は資源そのものから生まれるのではなく、資源をどう組み合わせるかによって生まれる」と考えました。この視点に立てば、大江戸温泉物語の統合は、施設数を増やすことではなく、「仕組み」を共有し、「再現性のある成功モデル」をつくることに大きな意味があったと言えるでしょう。
この考え方は、多店舗展開を目指す企業だけでなく、スタートアップや中小企業にも共通しています。人材、ブランド、ノウハウ、顧客基盤など、既に持っている経営資源をどのように組み合わせれば、より大きな価値を生み出せるのか。その視点を持つことが、持続的な成長への第一歩になるのではないでしょうか。
6. 私自身がクッキングクラスを経営する中で実感したこと

私は現在、大阪で海外からのお客様を対象としたクッキングクラスを経営しています。日々、世界中から訪れる旅行者の方々と接するなかで強く感じるのは、多くのお客様は「料理を作りたい」から予約しているのではなく、「日本ならではの文化を体験したい」「現地の人と交流したい」「旅行の思い出をつくりたい」という価値を求めて参加しているということです。
実際、私たちのクラスではラーメンや餃子、お好み焼きなど、日本人にとっては身近な料理を一緒に作っています。しかし、お客様が本当に楽しみにしているのは、料理そのものだけではありません。食材の背景を知り、日本の食文化や歴史に触れ、自分で作った料理を仲間と一緒に味わい、その時間を写真や動画として持ち帰ることに、大きな価値を感じています。
当初の私は、「料理を分かりやすく教えること」が最も重要だと考えていました。しかし運営を続けるなかで、高い評価をいただく理由は料理の完成度だけではないことに気付きました。参加者一人ひとりとの会話、日本での旅行プランを聞く時間、文化の違いについて語り合う時間、そして「また日本に来たら参加したい」と思っていただけるような温かい雰囲気づくりこそが、お客様の満足度を大きく左右していたのです。
この経験を通じて、私は「商品そのものではなく、体験全体を設計すること」の重要性を学びました。
この考え方は、大江戸温泉物語のマーケティングとも非常によく似ています。
同社が提供しているのは、温泉や客室だけではありません。地域の食文化に触れ、家族や友人と特別な時間を過ごし、「この宿に泊まって良かった」と感じてもらえる体験全体を設計しています。つまり、宿泊というサービスを販売しているのではなく、旅行という思い出をプロデュースしているのです。
私のクッキングクラスでも、お客様は料理教室を購入しているのではありません。「大阪で忘れられない体験をした」という思い出を購入しています。
この視点に立つと、営業もマーケティングも本質は同じであることが分かります。商品やサービスの機能を説明することではなく、お客様が本当に求めている価値は何かを理解し、その期待を超える体験を設計することが、長く選ばれ続ける事業につながるのです。
だからこそ私は、これからも「何を売るか」ではなく、「どのような時間や感動を提供できるか」を常に考えながら事業を続けていきたいと考えています。そして、大江戸温泉物語の事例は、その考え方の重要性を改めて教えてくれる、非常に示唆に富んだケースであると感じています。
7. マーケティングとは、「集客」ではなく「価値設計」である

マーケティングという言葉は、広告やSNS、キャンペーンなどの集客施策として語られることが少なくありません。しかし、それらはあくまで価値を届けるための手段であり、本質ではありません。
本当に重要なのは、「なぜお客様はこの会社を選ぶのか」という理由を設計することです。
大江戸温泉物語は、地域の魅力を活かした食を磨き、ブランドごとの役割を明確にし、既存施設を再生し、さらに長期的な顧客との関係づくりに取り組んでいます。その一つひとつは派手な施策ではありませんが、それらを積み重ねることで、「この宿に泊まりたい」という理由を数多く生み出しています。
つまり、集客は価値設計の結果であり、目的ではありません。
広告によって一度来てもらうことはできます。しかし、その宿に再び泊まりたいと思える価値がなければ、お客様は戻ってきません。一方で、本当に価値のある体験を提供できれば、リピーターが増え、口コミが生まれ、ブランドそのものが新しいお客様を連れてきてくれるようになります。
マーケティングとは、人を集める技術ではなく、人が自然と集まる理由をつくる技術なのです。
8. まとめ

大江戸温泉物語の事例から見えてくるのは、宿泊業界の成功事例という枠を超えた、「価値創造の成功事例」であるということです。
同社は価格競争に巻き込まれることなく、「旅の目的となる食」「顧客ごとに役割を分けたブランド戦略」「既存施設を活かす再生事業」「市場を分散させるインバウンド戦略」、そして「統合によって生まれる強い経営基盤」という複数の戦略を組み合わせることで、「なぜ選ばれるのか」という理由を一つひとつ積み重ねてきました。
私自身、この事例を通して改めて感じたのは、経営とは単に商品やサービスを販売することではなく、「価値を継続的に届ける仕組み」を構築することなのだという点です。
人口減少や人手不足、物価上昇など、これからも企業を取り巻く環境は決して楽観できるものではありません。しかし、そのような時代だからこそ、自社ならではの価値を見つめ直し、それを磨き続ける企業だけが、長期的に成長していくのではないでしょうか。
ピーター・ドラッカーは、「企業の目的は顧客の創造である」と述べ、マイケル・ポーターは、「戦略とは違いを生み出すことである」と語りました。大江戸温泉物語は、まさにその二つの考え方を実践しながら、規模ではなく価値で選ばれる企業を目指しているように感じます。
これからの時代に問われるのは、「何を売るか」ではありません。
「誰の、どのような課題を解決し、どのような時間や体験を提供するのか」、そして「その価値を継続的に届ける仕組みをどう築くのか」という問いに向き合うことです。
大江戸温泉物語のマーケティングは、その問いに対する一つの答えを示しており、業界を問わず多くの経営者や事業家にとって、大きな学びを与えてくれる事例なのではないでしょうか。
